英雄小説武侠の日本

はしがき

一。余は本書をば、自由、獨立、及び人權の爲に鮮血を流せし、フヒリツピントランスヴアール、兩獨立國の光榮ある武侠男子の墓前に供す。

二。余が本書に稿を起こせしは本年六月二日にして、稿を脱せしは七月七日なり、其の間相模國鎌倉に籠居せしを以て、近邊に一の參考書なく、又た就いて問ふべき專門の學者なかりし故に、格段なる專門の智識を要する處には、一二の誤謬なきを保せず、讀者諸君若し注意を賜はゞ、他日再販の期を俟つて改むべし。

三。余が本書に筆を染めしは、一種不思議なる因縁あり、實は先年佛國の文豪アレキサンダー、ジユマ氏の「モント、クリスト」を讀み、其の趣向の壯大なるに驚嘆し、本年は又たK岩涙香氏の妙筆が、同署を譯して「巌窟王」と題し、殆んど一年に亘りて萬朝報紙上に連載せられたるを看、余も愛讀者の一人となつて、讀めば讀む程面白さに堪へず、戀愛小説も面白いが此方がモツト面白い、文學上の價値が無しと云はれても、何と云はれても、面白きものは矢張面白きなり、如何にもして斯かる面白き小説を作らんと、毎日/\「巌窟王」の續物を讀みつゝ考ひつゝ、漸く愚頭よりひねり出したるが本書なり。

四。「モント、クリスト」即ちK岩涙香氏が譯して「巌窟王」となせしものは、原著も譯述も面白き事限り無し、恐らく全世界の傳奇小説中第一等のものたらん、本書は「モント、クリスト」と同じく傳奇小説なり、而して壯大なる復讐を主眼とせし點に於ては相似たり、但しアレキサンダー、ジユマ氏の「モント、クリスト」は世界有数の傑作なれど、愚頭よりひねり出したる本書は世界無類の愚作なるやも知るべからず、然れど余は余が現時に於て及ぶ丈けの力を盡したれば何と云はるゝも驚く處なし、且つアレキサンダー、ジユマ氏は既に墓に入りて白骨と化せしも、余は猶ほ生きてあり、生ける者は更に進歩すべき希望あり、此後願わくは百歳の壽を保ち、其の間に本書に續いて世に公にする作物にして、一卷は一卷より多少の進歩あらば、之れ余が希望の境に向つて進みつゝあるなり、何んそ何時までもアレキサンダー、ジユマ氏に驚かんや、何ぞ本書が「モント、クリスト」に及ばざるを卒に嘆ぜんや。

明治三十五年十二月

著者志るす

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