英雄小説武侠の日本

武侠の日本に序す

明治三十五年夏余千島より上京して報效義會東京支部の樓上に在る時押川春浪氏來り其新著武侠の日本の爲に序を求めらる當時氏の新著は既に印刷着手後なりしを以て余は其稿を目撃する事能はざりしも一篇の主意は國民の武侠的拐~並に海事冐險及び殖民思想を發揮せんとするにありと是れ余の最も快とする所徒らに空文を連ねて卷頭を飾るは余の志にあらず叉た氏の志にあらざるを知るが故に余は武侠の日本に多少の關係ありと認むる北門防備に關し一言を述ぶ

明治二十六年吾輩私かに期する所ありて當時全然世人の棄てゝ顧みざりし千島に志を立て百餘名の有志と相圖り報效義會を組織せし以來一意專念事に隨ひ明治二十八年に至り占守島探檢誌を著し以て千島列島の大體に關して論述し且つ該列島の拓殖の順序方法を定めて之を公にし且つ今日至るまで着々之れを實行したる結果我が會の基礎も漸く固まり其事業も成功に近づき一方には我が會の遠洋漁場探檢の報道も邦人の企業心を刺撃鼓舞上に於て聊か其功ありて隣邦勘察加半島の魚利は邦人の着目する所となり昨年に於て業に既に二千五百余人の本邦出稼漁夫は渡勘し鮭鱒の漁獲高は約七萬石に達するに至れり而して余は義會設立の當時より千島方面の事に付別に一の所信を懷き居たりしも敢て之れを發表するの擧に出でざりきを是れ事の關係極めて大にして之れを口にするは空言高論徒らに人を驚かすに類するの嫌ひありしを以て自己の心中に於ては々として明白なりしに係はらず敢て之れを趣意書も亦著述中にも記載せざりしなり然るに今囘圖らずも余等の當時よりの信所と同一なる意見の近時の露國新聞に掲載しありたる事を知り今は其問題の决して緩にす可からざる事を悟れり因て該新聞の記載する所に依り其語の足らざる所は意を以て忖度布演し參考として諸君の閲覽に供せんと欲す

其 に曰く「 きに露國日本との交渉の結果千島全島を以てサガレンの一大島と交換せり是れ實に吾が露政府の一大失策なりと云はざるべからず千島と樺太と其面積を算すれば千島はサガレンの百分の一に足らず物産を問へば叉サガレンの千分の一にも及ばず故に單に千島諸島とサガレン全島との交換丈けにして他に何等の影響を及ぼす事なしとすれば露國の利益を得たる事何人も疑ふ所あらざるべし然れども是れを露政府の一大失策なりとなすは畢竟軍事上地形の觀察を誤りりたるを以てなり何を誤りたりとなすか曰く今假りに甲乙丙國間に無所屬なる一島嶼あり甲國よりは軍隊を以て之れを防禦するに易く乙國よりは假令一且兵力を以て之れを占領し得るとするも地形上永久の防禦を敢てするに困難なりとせば其島嶼の終には甲國の領有に歸すべき事は何人も疑はざる所なるべし

乞ふ地圖を開きて千島サガレン勘察加等の地形を見よサガレン島の露國に屬すべきは一目瞭然何人も怪しまざる所なるべし而して千島列島の一半(占守よりプラツトチリポイ迄)は勘察加に他の一半(得撫北南)は日本北海道に屬すべきものなる事誰か叉敢て然らずと云はんや是れ實に地形上自然に規定せらるゝ所なり

然るを古來日本人のサガレンの一部を領して居住せるものありて露國人と境界を爭ひし結果兩國より委員を派して之れを規定せしより終に千島サガレンとを交換せんとの議起こりたりし當時若し露國政府に達觀の士ありて假りに千島全島を露の有となしサガレン全島を日本に譲るとの議を出し強て之れを主張したらんには其所意貫徹し得たらん事當時の状况に徴して明かなる事とす露にして千島を領し擇捉國後丹色等に軍備を施したらんにはサガレン島は如何にして防禦の實を擧ぐる事を得んや終に露国の有に歸すべきは是れ地形上の必然の形勢なりとす然り而して露國にして一且千島列島を領有したる曉には日本の北門將た何によつてか之れを守るを得ん叉北海道の守備焉んぞ今日の如き状況を以て安然たるを得んや然るに事竟に爰に出ですして單に千島樺太交換の事にのみ思考したるは之れ露政府の一大失策にあらずして何ぞや

然るに今や日露其所を異にして千島全島全く日本の有となりたる爲め露は勢ひ勘察加を放擲せざる可からざるの一大不幸を現出せんとせり是れ實に痛嘆に堪へざる所にして若し今日にして速に救濟の策を施さゞれば將來に於て國家の大患を殘さんとす乞ふ其理由述べん

吾人は八千八百五十四年クリミヤ戰爭の當時英佛聯合艦隊を勘察加の要港ペートルポルスキーを砲撃せし當時の状況を追懷せば盖し思ひ半に過ぎん當時千島諸島は我が魯國の所有にして占守幌筵には露人の居りたる頃なりしを以て露國にしてペートルポルスキーに援兵を出さんには此海峡を通過するに當て少しも顧慮する所なく航海上一の危險分子をも含まざるの時なりしにも係はらず遂に一兵卒をも出す能はずして聯合軍をして恣にペートルポルスキーを蹂躙せしめたるは何人も猶記憶する所なるべし而して千島列島今や全く日本の領有に歸し占守幌莚には多少の武器を所持する團体の移住するに至れり其以前千島の我有たりし時に於ては防禦上益々幾多の不便を感ずるは止むる得ざる事なりとす若し我が露国政府にして勘察加を放擲するの意あらば我將た何をか云はん苟も勘察加を保護なし勘察加に移住民を奬励し殖産興業の道を開かんと欲せば勢ひ之れを保全するに必要なる要素を備へざる可からず

何をか必要なる要素となす曰く他なし地形上自然に規定さるゝ所の千島列島の一半を領有するにあり如何となれば勘察加は東岸にペートルポルスキーの良港を有するも西岸六百哩間は一つの船舶を容るゝの港灣なし故に船を勘察加に送らんと欲せば是非とも東岸のペートルポルスキーに向はしめざるべからず而して浦鹽よりペートルポルスキーに達せんには必ずや千島海峡を通過せざる可からず固より今日に於て日本の軍備は决して千島まで及ぼす能はざる事明瞭なりとは云へ今日に於ては防禦水雷或いは魚形水雷の如き極めて費用少くして其功力よく大軍艦を強迫するに足るの威力を備ふる武器あるにあらずや故に今日に於て千島の海峡を通過せんと欲せば少くも此種の兵器の危險を侵す覺悟なかるべからす然るに若し我國に於て占守幌莚を領し之れが海峡を扼し浦鹽ペートルポルスキー間の航路を安全ならしめんか勘察加半島の防備是に於て始めて全かるべきなり故に以上の策を講ずる事今日に於て最も急務なりと云はざる可からず加之占守幌莚の海峡には頗る良港ありて船舶の停泊最も便にして之れを外にしては此附近數百哩の間叉一の港灣を有せず故に若し敵あつて勘察加を攻撃せんと欲せば依て以て根據となし策源地となす所は此占守幌莚二島の外叉求む可きの地なし故に我れにして先づ此二島を扼せば勘察加半島は一の軍備を布かざるも全く安全なる可し是れ此の二島を特に勘察加を防備するに於て必要欠く可からざる要素となす所以なり」と

嗚呼占守幌莚兩島の勘察加半島に對し攻守ともに其咽喉の地たるは數年前に於て既に報效義會の認識する所たりしなり故に事の難易を論ずれば先づ千島の南端より着手して近きより遠きに及ぼすべき理なるにも關せず敢て易きを捨て難を取り千島最北端の一島に根據を定めたるもの是れ豈無為にして偶々然るものならんや而して當時一言の此事に及ばざりしは其關係極めて大にして之を口にするも空言高論に止まるの嫌ありしのみならず其當時勘察加の如きも多く邦人の耳目に觸るゝ事實なく占守幌莚さへ殆ど邦人の想像する能はざる所の土地たりしを以てなり然るに今や勘察加の漁利は我が邦人の手に頼つて収得せられ海國税のみにても十萬餘圓我が國庫の収入となりたるの今日偶々露國新聞紙に於て現に前述の如き記事を掲載して憚らざるに至りては既に口を緘して默するの時にあらざるを知り此言を爲す有志諸君若し義會が百難を排して占守島に根據を据へたる微意を了せられなば幸甚

右を以て押川春浪氏が武侠の日本の序と爲す

明治三十五年十一月

報效義會長 郡 司 成 忠

は原文では目が口。空欄は文字が潰れてをり判別できなかつたもの。

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