海國冐險奇譚新造軍艦

はしがき

一。余が初めて「海底軍艦」なる海事冐險小説を著せしは、既に四年以前の昔とはなりぬ、當時東亞の形勢は、一天掻曇る程にはあらざりしも、北方の一角に一團の怪雲あり、何時か滿天に墨を流し、疾風を叫び、電光閃めくやう覺えしが、果たして然り、爾來四年の月日その間に、怪雲は次第/\に擴がり、今や叫ぶは疾風にあらずして戰鬨砲聲たらんとし、閃めくは電光にあらずして、劔影砲火たらんとす、諸君覺悟はよきか。

ニ。夫れ日本は世界隨一の海國なりとは、余が此種の小説を作るに當り、常に念頭に浮び來る格言なり、海國日本は何に依りて國運の隆盛を圖る可きか、何によりて國防の實を全うすべきか、今日東亞の風雲うたゝ急なる時、諸君は深く此問題に就き考慮あらんことを望む。

三。四年以前、余が未熟の筆を以て「海底軍艦」を著述せしも、聊か海事思想の普及を希望せし爲なりき、其後閑を偸んで拙著を公にする事すでに十數卷、ろくな物とては一つも無けれど、幸ひに江湖諸君の高評を得、就中「海底軍艦」及び其の續編なる「武侠の日本」とは少なからざる歡迎を受けて版を重ぬる事數回、速かに「續武侠の日本」を出すべしとの諸君よりの催促状は、本年初春より今日に至るまでの間、著者の机上に達せしものゝみにて二百六十餘通に及ぶ、其の催促状に對しても、余は一日も早く「續武侠の日本」を出さゞる可からざる義務を感じ、實は本年七月頃より幾度か其の稿に着手せしも「續武侠の日本」は余が畢世の力を注ぐべき著述にして、地理、歴史、軍事等、專門學に互りて取調べを要する事項も多く、且つ其の頃余は何人にも知らさず、一の奇怪なる冐險事業を企て、東奔西馳の見なりしを以て、落着き筆を取る暇なく、遲引に遲引を重ねて今日に及べり、愛讀者諸君に對しては實に相濟まぬ儀なり、然るに幸か不幸か、余が企てし冐險事業は、事漸く端緒につき、一隻の船今や港を出でんとするに際し、俄然大暴風の爲に眞逆樣に轉覆し余は命から/゛\陸地に這い上がりし有り樣にて、又もや當分筆取る運命とはなりぬ、實に人間の運命ほど不思議なものは無し、啻に不思議なのみならず、運命の種々に變化するのは極めて愉快な事なり、事業の成敗は人間の豫知し得る處にあらず、成功も愉快なれば失敗もなか/\に興味あり、人間は何んでも不屈の拐~を以て常に活動し居れば、其れで可しとは余の主張なり、余は目下小説を作り居るも小説家にあらず、ひそかに企つる破天荒の一事業あり、破天荒の一事業とは何ぞ、今茲に煩(火辱)しくは云はざるべきも、余は傳奇小説を作り世界の奇事を説く時、余も亦た何時かは斯かる奇事を實見するの人物たらん事を豫期し、冐險小説を作り、壯快極まる主人公を出す時、余も亦た何時かは小説にあらぬ實際の冐險を試み、若し其冐險事業の爲に死する事もあらば、後人余の傳記をものし、小説よりも猶ほ面白く、余は小説中の主人公よりも、更に壯快なる人物たらん事を希望し居るものなり、然れば余は今般小冐險事業に失敗せしも少しも凹み申さず、ヨシ/\此次こそは巧くやツて呉れんと、年猶ほ少壯なれば前途に大希望を抱き、ひそかに腕をさすつて天の一角を睨み居る次第、若し運よくば他日天下の諸君を驚かすものあらん、但し其時機は未だ來らねば、當分は落ち着き拂つて、余の最も好む冐險小説の著述に勉勵する積り也、即ち本篇は先月の作にして、直ちに印刷に附し、目下は房州北條の海岸に潜み、「續武侠の日本」を著作中、遠からず「續武侠の日本」は「武侠の艦隊」と題し諸君の面前に現はるべし、右催促状を賜はりし諸君におわびかた/゛\、一寸茲に謹告す。

四。其處で「續武侠の日本」に先ち、茲に著はす此の「新造軍艦」は如何なる小説ぞと云ふに、之れ余が前著「海底軍艦」に似て、更に舞臺を廣くし、雄大なる趣向を以て書始めし海國冐險小説の一なり、本編は世界の最大疑問なる帝國軍艦「うねび」の行衛不明に筆を起し、冐險奇傑の南洋貿易船を出し、日本男子の意氣と、海の驚くべき活劇とを示し、最大疑問の如何に解釈せらるゝや、諸君に向つて更に疑問を提出せしもの、本編に現はれし各個の英雄、美人、兇漢、可憐兒等は、他日如何なる有樣に於て再び諸君の前に現はれ來るや、實に全世界を震駭するに足る奇絶壯絶なる物語は、恰も海底に無限の寶の潜み居るが如く、此地球上の何處かに隱れ居るなり、想像力に富める讀者諸君は、本編を讀みし丈けで、著者の腦内にあるよりもモツト多くの奇事を想像し玉ふやも知る可からず、兎に角余は目下閑地を得たれば、之れより腕のつゞく限り面白きものを書かんと企て居るなり。

五。海軍少將肝付兼行氏が我が國民の海事思想の發達に意を用ゐられ、演説に文章に絶えず其拐~を發揮さるゝは諸君の既に知れる處なり、余は「海底軍艦」の著述以來同少將を煩はす事甚だ多し、今回も房州の閑居より書面を以て、何か有益なる序文をと求めしに、同少將は軍務多忙中にも拘らず、即日趣味ある一書を送らる本編の卷頭に掲ぐるもの即ち是れなり、同少將の近作和歌二首及び故勝海舟翁の長歌一章、再讀三誦していよ/\興味の津々たるを覺ゆ、余は深く同少將の厚意に感謝の意を表すもの也

明治三十六年十二月十三日

房州北條海岸の閑居にて、鏡が浦をへだて

遙かに富士山を眺めつゝ

著者志るす

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